2021年現在、
年間20万尾を水揚げする柿内水産。
その歴史は、75年前、
初代・柿内盛吉が一艘の小舟を
海へ漕ぎ出したことから始まりました。
「初代の決意」 終戦直後。まだ農地に対し就農人口が過剰だったころ、農家だった柿内盛吉は「狭い土地ではなく、広い海へ」と、生活のために漁師になることを決意。
たった一艘の小舟から、いまでは年間20万尾を水揚げする柿内水産の歴史が始まりました。 当時は近所の人たちと共同で船に乗る、まさに日々を生き抜くための漁だったといいます。 柿内家の漁師として初代となる盛吉は、鹿児島の片田舎にしては珍しくカメラが趣味だったようで、おそらく二眼レフブーム(1950年代以降)にカメラを購入し、わずかながら当時の様子がわかる貴重な写真を残しています。
「二代目の築いた、養殖への道」 初期には、ぼら網、いか素引き網、刺網漁などで生計を立てていましたが、1970年代になると、のり養殖を開始。盛吉の嫡男である輝盛も漁師の道を歩み始め、親子二代にわたる柿内水産はより体制を盤石なものにしていきます。 日本全体が高度経済成長に沸くなか、鹿屋市漁協ではブリを皮切りに養殖業が本格化。やがて日本初となるかんぱちの養殖に着手しました。もともと錦江湾は、一年中絶えず黒潮が流れ込む、プランクトンが豊富な良質な漁場。潮流も早く、身の引き締まった魚が育つ環境は、暖流魚であるブリやかんぱちの養殖に打ってつけでした。 1977年に法人化した二代目柿内水産もその流れに乗り、ブリを経て、かんぱち養殖へとシフト。漁協とともに大きく成長を遂げ、瞬く間に数万尾を養殖するようになりました。
「極上の“三ツ星かんぱち”を」 平成に入ると、鹿屋市のかんぱち水揚げ量は、全国の20%を占めるまでになり、かんぱち大国としての地位を不動のものとします。 なかでも柿内水産は最大級の規模へと成長し年間20万尾を育てるように。 「数だけでなく、さらに上質な魚を育てたい」そう考えた三代目の柿内三兄弟は、通常より3倍の手間がかかる養殖法に切り替え、甘みや旨味が一般的なかんぱちの数倍~十数倍に達する「極上・三ツ星かんぱち」を商品化することに成功。 その味はミシュラン星付きレストランにも認められ、お使いいただいています。 これからも、さらなる技術の向上を目指し、より多くの人に三ツ星のおいしさを届けられるよう、日々邁進していきます。